食べるという行為には人間にとって3つの意味があるという考え方
①生命の維持と活動のため(生物学的)
②嗜好・楽しみとしての食事
③食を通じてのコミュニケーション
僕らが当たり前のように行っている毎日の食事。。。
生物としての価値だけでなく、人さらには個人に対しても価値があるのだと気づかされる。
例えば、子供の頃の遠足で食べたご飯が異常に美味しかった、レストランでの食材を炒める音やお肉の匂いで早く食べたい、悩みを相談するためにご飯に行く、記念日にフレンチでご飯を食べるなど
食べるという行為に付随する価値の大きさに気づかされる。
現場での食べる行為とは?
自分の経験ではあるが、実際の医療・介護の現場では①にウェイトを置いているように思える。
食事がルーチンワークの一部のようで、決まった時間に決まった場所で準備された食事を食べるという行為が見て取れる。
もちろん栄養面に配慮されていたり、生活リスムを構築するといった点ではとても良いと思う。
しかし、人が人である以上②、③のような価値にもっと目を向けるべきだと考える。
病院と訪問での環境の違い
病院で働いていた頃は、食べることは言語聴覚士や看護師に任せっきりであった。
もちろん理学療法士として嚥下時の姿勢や覚醒レベル向上として間接的に関わっていたいたが、嚥下自体を直接見る機会は非常に少なかった。
ポジティブに言えば、見てくれる職種が居て良い意味で分業ができていたのだろう。
では訪問リハビリテーションの現場ではどうだろう?
訪問の現場では、病院の様に多職種が同じ空間にいるわけでもなく、訪問リハビリテーションに従事している言語聴覚士となれば非常に少ないのが現状だ。
つまり担当したセラピストはPT•OT•STとしてだけでなく包括的にかつ専門的にクライエントを評価していく必要があると感じる。
また、摂食・嚥下を訪問の現場でトライする事はリスクも付きまとう。
近くに医師や看護師が居る訳でもなく、吸引等の機材が揃っているわけでもない。
そのため、訪問の現場で実施する際には、しっかりとしたリスク管理・嚥下に対する知識・評価能力が必要と考える。
まとめ
食事を通じて、身体だけでなく精神的な部分やその人らしさを引き出すツールになる可能性を感じる。その方の食生生活や体型なども把握していく必要があると考える。
食というのは生きるエネルギーである。
毎日、行われているという強みがあり、それを良い方に転がすだけでもしかしたら・・・身体と栄養だけでなく食に対する取り組みによっても大きくもっと上記の2や3に対して介入することがその人らしさを引き出すアプローチになるのではないか?